スポーツ観戦はあまりしないが、高校野球は好きだ
テレビを付けたら試合の中継をしていて、故郷のチームが対戦しているなどしたら、
思わず見入って応援してしまう
高校野球の試合は、一発勝負だ
一試合ごとに完結して、絶対に後戻りできない、そのいさぎよさが好きなんだろうと思う
いつも思うんだけど、そのいさぎよさは、聖書が教える生まれ変わりの無い一度きりの人生と似ている
やり直しがきかないから、一球、一打席に心をこめてすべてをかける
そして思いもかけないドラマが生まれる
目が覚めるような好プレーがある
9回裏からの、息をのむような逆転劇がある
反対に、エラーもある、痛恨のミスもある
あの送球がコントロールできていたら…
あのゴロをしっかり取れてさえいたら…
逆転されなかったのに、勝っていたのに…
本人もチームメイトも悔しかろうと思う
真面目な選手だったら、いたたまれなくて自分を責めてしまうだろうな
頭を下げたまま、「ゆるしてくれ」とも言えないかもしれないね
そんなとき、
「誰もがミスをする可能性があるんだから。俺たちは精一杯やったんだ。これでいいじゃないか。頭をあげろよ。」
って言ってくれるチームだったら、最高だよね
もしかしたら今までは、「俺がやってやる」っていきがっていたかもしれない
だって、強豪校で、ナインに選ばれた位の実力があったら、自信もあるよね
それが、現実は、どうだ
俺のミスで負けた
自分がどんなにちっぽけかが分かった
本当に、申し訳無くて心が痛い
でも、こんな自分にみんな温かい
責めずに、ゆるしてくれた
こんな風に「愛」を感じたときに人は成長する
ゆるしの「愛」の中で、失敗はただの失敗では終わらず、人の思いやりなどを感じた宝のような経験になる
これもまた、神を信じる歩みに似ているなぁ、って思うんだよね
人生で失敗しない人って、いないよね
あんな余計なことを言わなければ
あのとき、気づいてあげさえすれば
あんなこと、しなければ良かった
もしくは、あのとき、もっとちゃんとすれば良かった…
人生に失敗と後悔はつきものだ
自然に頭を垂れて、誰かに、また何かに、「ゆるして欲しい」と願う、
誰にでもそういう瞬間があるのではなかろうか
そんなとき、人は神にゆるしを求めて祈ることができる
イエス・キリストが、私達の罪のために十字架にかかって、身代わりに死んでくださったからだ
「神様、ごめんなさい。あのとき、あんなことをしてしまいました。自分や人を、傷つけてしまいました。悔い改めます。イエスの御名により、ゆるしてください。いやしてください。」
またそんなときに責めたり批判したり、
「あなたの罪のせいでこうなったんじゃない」
とか余計なことは言わずに、
傷ついたところまで降りてきてくれて、心を合わせて一緒に祈ってくれて、
イエスの御名によって赦しと癒やしを宣言してくれる人がそばにいたら、
最高に感謝だよね
そのとき、人生をやり直す力が与えられて、失敗は宝となり、
これからの人生で自分と同じような失敗でつまずいてしまった人を、励ますことをもできるようになる
神様のご計画は人間が思うよりはるかに偉大で
素晴らしい愛と出会いであふれている
感謝
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」聖書 ヨハネの手紙第一 1章9節
「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」聖書 ルカの福音書 22章32節

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